「ヤクザル調査隊の始まりと、海岸域・山岳域の分布調査」
好廣眞一(龍谷大学経営学部名誉教授、1989-2010年参加)
好廣と申します。ヤクザル調査隊の隊長を務めております。今日はどうもありがとうございます。



それでは私からヤクザル調査隊の始まりと海岸域それから山頂域の分布域、分布調査のお話をいたします。お手元にレジュメがあると思いますのでそれをご参照頂きませんでしょうか。ヤクザル調査としては1989年に開始したわけですけども、それから90年に調査方法を確立して、そうしたところに萬田先生の方から屋久島の海岸域の分布を調べてくれないかという要請がございまして、それに応えてたくさんの学生諸君と一緒に2年間調査をいたしました。それから山頂域の垂直分布の調査に移りまして、それを行ったのが1993年から97年ということであります。

そしてその後、山頂域では追いかけることができませんので、中部域の平瀬というところで調査を始めまして、そこで現在まで続けているというのがヤクザル調査隊のあらましなのです。それで、しかしながらこのような屋久島のニホンザル調査は、実は1973年にまでさかのぼります。

我々今は霊長類学会というのを持っておりまして、そこで発表するのが全体の霊長類学者の集結するところになっているんですが、当時はまだそういうのがありませんで、年に一回日本モンキーセンターというところで行われるプリマーテス研究会というのがございました。その時に全員、いろいろな分野の霊長類研究者が集まって色んな研究結果を発表するという、今の学会にあたるようなことをずっと続けてきたわけです。1973年の3月のプリマーテス研究会の折に、それまで各地で餌付け群によらない野生群の調査を続けていた、例えば下北でいうと足澤くんであるとか、あるいは白山の調査をしていた増井憲一くんとか、あるいは房総丘陵で野生のサルを追いかけていた岩野泰三くん、それから上原重男くん、そしてこれは湯河原で餌付け群を長く調査していた福田くん等々、また私も志賀高原で長年野生のサルを調査していたわけですけれども、そういった人たちが集まったわけです。そこで、熱い議論がありました。夜を徹して議論をしたということがありました。その時にひとつ決めたことは、「我々も雑誌を作らなあかん」というので、雑誌「ニホンザル」というのを作るということをそこで決定しました。もうひとつ実は各地で色んな問題点を抱えていたわけですけど、それを解決する場所は屋久島やないかという、屋久島やるべしという決意をしたわけです。これがあのいわば我々の原点であるというふうに思っております。その理由は、垂直分布帯があって、日本の気候の南から北までの垂直分布として1セット屋久島には存在している。各地のいろいろな植生態を1つのセットとして屋久島には備わっているとということが、非常に大きな理由でありました。その屋久島やるべしという当時の若手研究者が、ちょっと先輩の東滋さんと一緒にいわば決意をしたわけであります。

そしてその年、屋久島で予備調査をするわけです。で、私は実は新婚旅行で屋久島に行きました。予備調査を兼ねて行ったわけであります。それでそれぞれの人が屋久島を歩いて山の上までそれぞれの人が行ったわけですね。行ってみると、下から上まで結構いっぱいいるぜということがわかりました。それまで、我々が志賀高原で調べていた時には1日歩いてもサルを見つけることはできない、という日が20日も続くというような調査を続けていたわけですけれども、ところが屋久島行ったらゴロゴロいるで、と、それも下から上まで、という驚きがあったわけです。翌年73年から76年まで3年間、まず西部林道域、これが屋久島の海岸域で唯一自然林に近いものが残されていた所でありますから、そこの調査をしたわけであります。そうしましたら、凄い、1平方キロメートルに1群いるでと、我々はその10倍近くの10分の1の密度しかない所で調査しておりましたから、ものすごい驚きであったわけであります。20頭も30頭も1平方キロにいるでという驚きがあったわけですね。そして屋久島はこの上に海岸域から0mから山頂域まで、1935mの宮之浦岳の山頂は森林がないものですからサルがいませんですけれども、第二峰の86mの永田岳、1986mの永田岳山頂までは群れがいるということはヤクザル調査隊の調査でわかります。垂直分布帯のそれぞれのところにどのようなサルがいるかということを調べようと思ったわけです。最初は屋久島の上の調査、この辺りで夏と冬に調査をいたしました。

  


1986年であります。このベースは1555mの鹿之沢小屋であります。ここで夏と冬と1週間づつ泊まり込んで調べました。夏は、鹿之沢小屋に来ます2つの登山道と、小屋から山頂域までの3ルート、そういう3ルートを毎日歩きまして、サルの声を聞いて調査をいたしました。夏は結構いるんですよね、上の方にもこのように群れが見つかりました。冬はこのような状態で上はサルはいません。しかしながらそこの1400、1500m付近に1群の足跡を見つけることができました。沢から沢へ超える途中の尾根筋にこのようなものが見つかったわけです。冬はやっぱり沢にとにかくいて、そしてそこから時々尾根にも出てきて横の沢にまた行くという暮らしをしていると考えられました。その時の足跡を数えまして、数を推定したわけですけれどもこのように12頭の存在、群れを確認しました。大きいものはオトナですし、一番小さいものはアカンボウなのかもしれません。上部域の調査でこのようなルートで調査をしたわけですが、これが主稜線とそれからこの永田岳の山頂、宮之浦岳の山頂この辺りの主稜線の調査、それから鹿之沢からの花山歩道の調査そして永田歩道の調査という3ルートで夏と冬との調査を行ったわけです。上の方の調査は夏は確かにいるんだけれども上はもう灌木がビシビシでなかなかサルを追いかけることができませんし、しかも崖がすごいもんですからうっかり調査すると落ちてしまう危険がありました。そのため、この上の調査でサルを追いかけることは難しいなというので中部域の調査をすることにしたわけです。
 
   
   
   


実は林野庁がその最後の屋久杉伐採を企画したわけでして、それはもう瀬切川と大川の間の瀬切川の右岸の屋久杉林を伐採しようという計画を出したわけです。 しかしそれを伐られてしまうとせっかくの垂直分布帯が切られてしまいます。せっかくその海岸域から山頂までここは残っているのにそれがぶった伐られてしまうということで地元の柴鉄生さん、あるいは兵藤さん、あるいは長井さんなんかが猛反対されまして、我々サルの研究者も、丸橋くんや山極くんも一緒に反対しまして伐採計画は中止されました。それは1982年のことでした。
 


そしてその直後に平瀬の地域の入ることになったわけです。伐採計画があった林道の途中で、泊まりで調査をしました。大井徹くんと2人で永田からここまで歩いて行ってキャンプ張って泊まったわけです。それで調査をしたわけですが、その後九州大学の黒木くんとかあるいはのちに亡くなってしまった松本猛くん、赤座くんとか、そういう人達と一緒に調査をいたしました。

その後、この地域でその調査を、ヤクザル調査隊を始めることになるわけですけれども、それは89年に猿害がとにかくひどくなってきまして、それをなんとかしたいということでそのためには広い範囲を調べる方法が必要であるということで、大井徹くんが調査方法を開発したわけです。ここでヤクザル調査第一回はこういうメンバーでやりました。それでブロック分割調査法という方法なんですけれども、500m四方に地域を切りまして、その中に一人ずつ定点調査員が入りまして、そして一番声の聞こえやすい所に陣取って1日サルの声を聞きます。サルが鳴くということは2頭以上サルの集団がいるということでありまして、しかも動かないから非常にそれが捉えやすいという長所を使ったわけですね。それをこう配置しましてやってみました。
 


こういう地域で試みてみたわけです。そうしましたら最初は素人ばっかりですから、20%しかサルの声を聞こえ取れませんでした。つまり、セミの声であるとかシカの声であるとか鳥の声であるとかそうしたものとの区別ができなかったわけですね。ところが1日終わりますと翌日からは70%の発見率で群れが発見できることがわかりまして、え、素人で70%聞ける、これは大したものやなということで、翌年実験をいたしましした。つまり、先ほどの山極くんとか丸橋くんであるとかそうしたベテラン調査員に群れにずっとついてもらって、その群れの出す声を素人定点調査員がどれぐらい聞けるかということを試してみたわけですね。そうすると70%になるぜということがわかりました。こうして、89年、90年は、これで使えるなという調査方法を確立したわけです。

翌年91年と92年は萬田先生の要請で海岸域の猿害多発地帯で調査を、大規模な調査をしたわけです。こうしたふうにそれぞれ地元の方に聞き込みをしたりとかいうこともありました。その結果を報告、93年にいたしました。
 


それで分布はこういう状態でした。西部林道域、ものすごく多いです。1平方キロメートルあたり105頭というこれはニホンザルの中で断トツに高い値でした。やっぱり林がきっちり残されている、照葉樹林帯がきっちり残されているということが非常に大きな条件だったわけですね。しかし他のところでも、例えばこの地域なんかでは割合多い、でここのところも少し海岸域に林が残されてたりしているので結構な数でサルがいました。しかしこの屋久島の中でも宮之浦と安房の間はほとんど人工林、杉の植林地に変えられていました。そういうところは極めて少ないということがわかりました。つまり要するに林の残り方と、そのつまり照葉樹林あるいは落葉樹林でもいいんですけど、広葉樹の林の残り方とそれからサルの密度は比例するというということがわかりました。


そして、海岸部を一周調査したあとで、次は上の方を目指すわけです。梯をかけてやるといいますか、先ほどのブロック分割定点調査法を縦向きに応用して調べました。
 


最初は西部林道周辺の海岸から国割岳までの地域を、このようなルートで調べたわけであります。その結果はこのようでありまして、下はものすごく多いけども上はそれほどでもないという結果でありました。全体としては植生帯ごとに違い、下はものすごく高いけども上は400mよりも上ではほぼ1平方キロメートルあたり30頭という密度になっているということがわかりました。
  


全国のサルと比べてみますと、この海岸域の105頭というのはダントツに高いんですけれども、上の30頭付近というのは本土のほかの照葉樹林帯と同じような密度になっているというわけで、これはおそらく1年間食べる量が、その地域と似たような条件になっていると、上の方でも実は冬は葉っぱは食べれているということも屋久島の条件となっているかと思われました。
  


これまで、ヤクザル調査隊の10年、20年そして30年というそれぞれの報告書を刊行しているわけであります。それで上の方にどのようなサルたちがいるのかというのを調べたいなと思って試みてきた歴史なんですが、これがこれだけ続いてしかも近年本田くんが明らかにしてくれるということなのでありがたいなと思っております。 ありがとうございました。
 



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